昭和46年09月03日 朝の御理解
御理解 第95節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
此方は銭金では拝まぬ、教祖金光大神は、神様を利用したり、又は悪用したりするような事は、せんと言う事だと思うですね、神を利用したり悪用したり、どういうところから、神様を商法にしたり、悪用したり、利用したりするような事になるだろうかと。教祖金光大神を通して拝ませて貰う、天地金乃神様という方の、御心というか、御働きというかそれをわからないところから、そう言う事になる。
いわゆる月次祭に頂きましたように、日田の綾部さんが頂かれた、御理解「力ある静けさ」力ある静けさ、神様を信ずる力が有れば有るほど、神様を利用したり、又は悪用したり致しませんというのではなくて、そうしたらもう馬鹿らしい話です。神様を利用したり悪用したりすると言う事は、神様を冒涜する事にもなるし、同時に自分自身としても、この様に馬鹿らしい事は無い、神様をわからない、信ずる力が無いから、神を商法にする結果になって来る。
そこで悪用とか利用とか、言葉を使いましたが、それなら私共は、神様をいうならば使うというか、そう言う事が有っていないかというと、矢張りある訳です。けれどもそれは例えば久留米までやらして貰う、どうぞ宜しくお願いしますと、まるきり神様を道案内の様に思うとる。まるきり神様をお供人の様に思うとる、久留米までまいりますから、どうぞ宜しく願いますと、無事に行って帰って来れる事を願うのですけど。
けれども同じ事でありましても、もう一事が万事に縋がらなければおられないのであり、願わなければ居られないのであり、神様を頂いておると言う事が有り難いとして、いわゆる同行二人ですか、神様を外す事が出来ないから、神様只今から、久留米にやらして頂きますと願う、同じ願うでもそういう風に違うて来る。只自分の都合の良か時だけ、久留米に行きますけんどうぞ宜しくお願いしますと、何処何処に集金に行きますから、どうぞ宜しくお願い申します。
まるきり神様を集金人の様に思うたり、道案内人の様に思うたりしておる様な願い方、又は、そういう程度にしか、神様を頂いてない人もあろう、そういう人は神様を利用しとる訳です。いわゆる障子一重が侭ならぬ人の身であるという事実が分からして頂いて、ここ一寸動かして頂くでも、あなたのおかげを頂かなければ出来る事じゃないのだから、どうぞ宜しくお願いしますというところには、同じ久留米にやらして頂きますという願いでも、只今から集金にやらして頂きます、からでも大変な違いなんです。
同じ事いうておる事は同じ事でも、片一方は神を悪用する事になり、利用する事になり、片一方はもう、神を頂き切っておる、神様なしにはもう動けない程しのものを頂いての久留米行きであり、集金である。してみるといよいよお道の信心がわからなければならない、金光大神この世にご出現になった、又は天地金乃神様のおかげを受けられる様になった。その大元のところを分からして貰う。
そしてそこんところを身につけての願いであるならば、それは神様もまた喜んでいうならば、集金人にもなって下さろう、それこそ氏子のお供人になって下さるだろう。そこんところがわからずに、只願うとか頼むとか言う事はです、どんなにそれが一生懸命願ったとしても、それは神を今日は商法にしてはならぬというところにね、悪用してはならぬ、神を利用してはならぬという意味で、お話を聞いて頂いとるのですね。
まあ普通は例えば拝み料を取ったり、又はお札を幾ら幾らと決めて、それで例えばお宮さんなら、お宮さんがたっておると言ったのは、これはまず仏様を生活のために使っている訳ですね、だからそういう意味の事を、此処で教えて居られるのです。けれどもこの九十五節を哲学するとでもいいましょうかね、深い意味合いにおいて頂いて参りますと、商法にしてはならんぞと言う事は、神を悪用したり、利用してはならんぞと言う事なんです。だと思うです。
そこでなら私共は悪用してないか、利用してないかと言うとです、矢張り神様を悪用したり、利用したりしておることがある。その前の九十四節にこれはまあ、教師に対してでございますが、信者に不同の扱いをすなと、物を余計に持って来ると、それを大切にするような事ではならぬ、信心の篤いのが、真の信者だと仰有るのが、この人は教会のためになるから、この人を大事にする。
この人はお供えを沢山するから、大事にするしてこの人は参って来るだけで、あんまりお供えもせんから、粗末にすると言う様な事をです、此処では不同の扱いをすると。何故取次ぎ者が不同の扱いをせなければいけないか、それはね、いわゆる信ずる力がないから、いわゆる力ある静けさというものが、欠けておるからです。いやそう言う事では、神様の働きをにぶらせる事になる、神様から本当のおかげを頂かせる事が出来ないと、信じていないからである。
だから不同の扱いをせんならん、けれどもこれは私の筆方と言うか、私の生き方で行くと、形の上に於いては、私は不同の扱いをしておる訳です、それにはねまだ九十四節を哲学すると言うならね。私の場合はどういうところに焦点が置かれてあるかというと、不同即平等と言う事になるのです。問題を言うならば、その人がおかげを受けなければならんから、お茶の一杯も出す場合がある、その人がおかげを受けなければならんから、絶対お茶も出さん同じ事なのである。
焦点がおかげを受けなければならんからそうする、一寸難しいけれどそう言う事なんです。ところがこの九十五節から頂きますとです、この信者はお供え物を沢山持って来るから大事にしてから、又持って来て貰わんならんと、これは神様おかげじゃなくてね、いわゆる神様の働きを知らない、神様を信じ切っていない、だから信者に頼ったり信者に縋がったりする訳なのです。
だからお茶の一杯も出さんならんのであり、御飯の一つも時に出さんならんと言う事になって来る訳です、だから形は同じ事であっても、だから私の場合はね、それは不同の様であって平等だと。どこに焦点を置くかと言う事は、問題はこの人がおかげを受けなければならんから、という所に焦点が置いてある。だからこれはまた皆さんの場合であってもそうです、只人間心だけ同じ親が子供が5人なら5人いるとしましょう、この人がおかげを受けなければならんから、ならよいですけど。
この人は家のためになるから大事にする、この人は親の言う事を聞かなかったり、親のためにならんから、粗末にすると言うのであったら、只親子であっても、いうならば神を売る事になるでしょう。神様を利用する事と同じ意味になるでしょう、神様をいよいよ信じ、神様の働きをいよいよ分かり、神様の心が分かる、いわゆる、神様の心、いうなら、神心、信心の篤いのが真の信者だと言われる、真の信者という事は、神様を信じ、神様の御教えに忠実であると言う事。
そこには不同の扱いもなからなければ、又はを悪用する利用する事も無い、いやそういう、悪用したり利用したり不同の扱いをしたら、おかげの本当の意味においての、おかげが受けられん事が分る、だから実を言うたら馬鹿らしい話である。そこでいよいよ真の信心をわからして貰う、そして力を頂かなければならない、力を頂いておるから、静かにしておられるというおかげ騒がんでもよい。
自分がしかともない人間心を使わんでよい、ところが事実を申しますとね、矢張り人間心を使わねばおれない場合もある訳です。そこんところを昨日、夜のご祈念を、愛子が当番でしたからご祈念の後に、皆さんに聞いて頂いておりました。昨日ある人にきつい事を言うた、言うた後に、あぁしまったとこう思うた、けども言うた事はその人にとっては、本当な事を言うた、それは向こうの人は傷つけられたように思うたけれども、私は言わんでよい事を言うたようにあるけれども。
その言うた事が本当におかげになる為に、その後の信心を言わばその為に、修業させて頂いたと。お詫びをさせて頂く所は、お詫びをさせて頂くけど、その事がおかげになる、いわゆる失敗は成功のもと、と言う様な事をいうけれども、信心の場合は失敗は成功のもとではない、失敗はおかげの元という風に申しておりました。あぁこれは言い過ぎたと思う後の信心が大事なのです、私はそれを説明してから一言聞いて頂いた。
私どもが日々信心の稽古をさせて頂き、神様が合楽で言うならば判かれば判かるほど、いよいよ成り行きを大事にする、いわゆる自然の働きを大事にする、もうこれは絶対の道である。それこそ大地をたたく程、間違いない程の事である、言うならば大地をそれこそ、どっしどっしと、落ち着いて歩いて行っている様なものである。ところがです私共は、そう自然にとばっかり行かない場合もある、矢張り神ながらの道だけをだけでは、いけない場合がある。
それは私共が生きておる人間、言うならば信心の無い人浅い人、いわゆる人間の神ながらではいかん、矢張り人間心使わなければならん時もある、だから同じ人間心を使うても、いわゆる真心を内容として人間心を使う、例えば私親教会の場合なんかは、神ながらという訳にはいかんです、ここでの様に神ながら主義にしたら、それこそ大坪は親教会の事は、全然思わんとじゃろうかと、思われるだろう、ですから私はそこに無上の、人間心を使う訳です。
そこでそういう人間心を使う、又ならば信心の全然無い人、又はお付合と言った様な場合、もうこれは神ながらじゃない、矢張り人間心を使うて、まあ何かあるというと、お神酒の1本も持っていっときなさいと言う事になるのだ。これが普通の対信者である、ならばそんな事をすることはいらんけれども、人間心使わんならん事もある。信者さんの面でも、矢張り人間心使わねばならん場合もある、だからそういう時をです、私は詫びておらなければいけない。
これは私の真心と思うとるけれども、矢張り神ながらではない、いわゆる人間心である、人間心では至高のものかも知れないけれども、矢張り人間心いわゆる策を弄するのである。策を弄しておるというと、大変響きが悪いですけど、矢張りそうなんである、先の先まで考えてそうしとる訳である。策を弄しておるもう人間心でばかり行く人はいつも不安です、人間心というものが、神心の様に間違いの無いとはいえないからです。いつどこに隙があるか分らないからです。
間心で世の中を渡って行くものは、常に不安であるけれども、成り行きを大事にすると、私がいうのはねそれこそ、大地をね一歩一歩確かに踏みしめながら、歩いている程に間違いない。ところが私共の場合には、人間でありますから、お付合とか言った場合です、矢張り策を弄する場合もあるですから、そう言う所をです、昨日愛子がいうとりますように、詫びていかなければならない。
今日はちょっと人間心を使い過ぎたようでございます、どうぞそこんところはもとに戻しておいて下さい、どうぞもとの大地を歩いておるような在り方にならして下さい、ところを詫びたり願ったりしていくところに、又同じ事になってくる、この事は意味が判るでしょうか、例えばこの頃からそんな話がありました。田主丸の信用組合からここの御造営のことに、沢山のお金を借りとりました。
それが最近になって、いよいよ判って来た事は、あの時にあれだけの沢山のお金をですね、信用組合がようも貸した、貸したと思うことなのです。これは小野先生が見えてから、もう合楽の金光様に、信用組合が何千万という金を出したと聞いてもう、浮羽郡の七不思議の一つだというたと言う事である。もう学校関係と宗教関係には出さないというのが、もう常識だそうですね、銀行ではそれがしかも全然知らないのにですよね、いうならば、金を出してと言う事は。
その証拠がですね、最近になってわかったんです、いよいよだからそういう実績を持って居るから、この度ここに御造営が出来ます時にです、もう二言と言う事とは、いるまい、もうすぐ貸して貰えるだろうと思うとったんです、ところがこんど御用立て出来ませんとこういう、そげな事いいよるならもう、合楽と信用組合はもう縁が切れますよと、いうて、ここの幹部の方、四五人の人が行ってから話した。
だから、向こうでは、それではちっと未練があるらしく、ならば借入れの申込みを作成して提出して下さいという事であった。だから当然貸して呉れるもんだと思うとった、そして、協議した上に協議したところがです、今度は、金額も小さいですよ、前に不都合しとったと云う事もないですよ、それに、貸されんというて来たのですから、そこで日田の綾部さんの言葉を借りるとですね、これは呆れたという話なんです。
ならば信用組合の貸出しやら、そういう人達には、盆正月の贈り物も何にもしょんなさらんじゃったとですか、私の方あたりは、もうちゃんと、窓口なら窓口、もう盆正月には、ちゃんとおつかいものをいつもするんだと、それは矢張りなさらねばいけませんでしたね、これからなさらなければいかん。ほうそげなもんですか、私は銀行の方から貰うかと思いよったら、こちらからあげないかんですか、というて話した事でした、そげな事ならこれからせじゃこてと、話した事でございますけど。
つい最近愈々いけないと言う事を経理の久保山さん迄通達があった。ところが今度は、こっちの反対の方には、不思議な不思議な働きが始まっておる。久留米の住友銀行の支店長がここに見えた、奥さんが佐田さんの女学校時代の友達であった、まあそんなこと、ここで申し上げて良いかどうか、いけない事だとおもいます絶対、奥さんの言で支店長が、左右される事があってはいけないので、そう言う事では無い。
けれどもこちらの申込みを聞かれて、只合楽教会というのは、非常に関心を持たれた事だけは事実である。御本部に行かれた御本部で調査をされた、ところがもう日本中をきっての合楽教会である、ことに最近の御ヒレイを聞いて来られた。田主丸の方からは断って来た、久留米の方からはその後にどうぞ、お申越しの金額を御貸しする事が出来るという決済が付いたと知らせがあった。
もうこれもまた不思議で不思議でたまらん、いわゆる天下の住友といわれる様な大きな銀行がですよ、まあ合楽位のしかも、宗教関係には金は出さないというのがですよ、常識だと云われておる、そこへですよ、金を出す決済が付いたと云う通知があった時に初めて、久保山さんが私にいうのですよ。もうどんなに考えても、田主丸から断られた事を親先生に申し上げられなかった、どうなるもんかと思うとった、ところが神様の働きには恐れ入ってしまいますと、今その関係のものが恐れ入ってしもうとるです。
合楽のものは、合楽でその関係の人逹は、ならこれがどうでしょう、先からいう策を弄して、例えば組合長やら係の人達に対して、進物もの一つでもしょったら、もうそれに対してだけでも、合楽に貸さなければおられなくなったでしょう、田主丸の銀行だったら、利も高いです、しかもねいうなら格が違うです取引銀行の。策を弄しておったら、どう言う事になっておっただろうかと思います、田主丸の方からも貸すというて来た、久留米の方からも貸すというて来た、さあどうしょうかと言う事になるでしょう。
それこそ5年前に助けて貰うて、貸して貰うた恩義に対してでも、利が高かったっちゃ、田主丸の方を立てんならんと云う事になって来たでしょう。もう合楽の行き方は一事が万事にこれでしょうが、おかげを受けておると言う事は、だからそれでも矢張りね、策を弄さなければならない時もあるて。皆さんの場合そうでしょうが、こうして貰うためには、矢張りお菓子箱の一つでも持って行かんならん時があるて、そう言う事は、今日の御理解でいうと、神を悪用する事になる利用する事になる。
神様の働きを阻止する事にもなる。だからその時はその時で詫びて行けと、今日いう話であるだからね、もう成り行きを大事にして行くという行き方はです、これは絶対の道です。大地を叩く程間違いはない。大地を一歩一歩踏みしめて行く程に、間違いないです。けども人間心を使うてやっておる、それはお願いしてあってもです、どこからか狂うて来るですですから、策を弄しておる場合はです。
策を弄しておるとは、悪いひびきがありますけれども、いわゆるお道の信心でいうならば、神乍らの道を歩かんならんのに、神乍らでない、人ながららの道です、人間心を使うての時の場合はです、それは、云うならば、失敗にも等しい事だけれども、その事を詫びて、神乍らの道にもどっておかないと、次には進まれないという、行き方をさして頂かねばならんと言う事。
そういう信心を分らせて頂いてからの、この九十五節であったならばです、同じ久留米行きのお届けするでも、甲の人は神様をまるきり道案内人の様に使う事になり、乙の人の場合は、そうしなければおられないものが、そうなって来るのであるから、神様は喜んで先に立って下さるであろう、同じ事であってもと言う様な、これは大変難しい九十五節、九十四節を借りまして。
まあいうなら九十五節を哲学したと言った様な感じでしたですね。そういう意味において、私共はね。神様を商法に使うてはならぬ、利用してはならぬ悪用してはならぬ。けれども私共、信心がある意味で判ったならば、九十四節というならば、不同の扱いのように見えて、実をいうたら不同即平等という生き方でいく事が出来る、それが実をいうたら本当なんだ。信心の判る判らないというところで、そんなにも違うて来る。同じ事からでも、どうでも信心が判らなければいけない。
そしてです、そして、大地を歩かせて頂く程の間違いのない、1日を過ごさなければならない、それを、神ながらの道と云うのである。けれども私共生きておる人間関係の生じてくる場合、ここには、人間心を使わねばならぬ時もあるけれども、そこんところは詫びていけ、そして元の神ながらの道に戻って、又次の事柄に進んで行く様な、慎重な行き方というものが必要だ、そうすれば失敗もまた、成功のもとでなくて、失敗もまたおかげの元と言う事ね。
どうぞ。